この写真が撮影されたのは、アフリカのスーダンという国です。1993年当時のスーダンは、10年にわたる内戦と干ばつとで深刻な飢餓に見舞われていて、飢えや伝染病で毎日多くの子どもが亡くなっていました。
そんな状況下で撮られたこの写真は、世界中に配信され多くの人々に衝撃を与えました(私もその1人です)。やせ衰えてうずくまる少女と、その少女を見つめるハゲワシ。カーターの撮った1枚の写真は、世界がアフリカの厳しい現実に目を向けるきっかけとなったのです。一方でカーターは、多くの激しい非難も浴びせられました。
「なぜ、真っ先に少女を助けなかったのか!」
写真を撮った後のカーターの行動や少女の安否については考えなくてかまいません。皆さんは「ハゲワシと少女」を見て、世界にアフリカの現実を伝える役割を果たした1枚と称賛しますか? それとも、危険が迫っている少女を助けようともせず撮影を優先した1枚と非難しますか?
約30年前に行った道徳の授業で、当時の教え子の意見は真っ二つに分かれました。そして、どちらが「正義」であるか正解を出すことなく、私は授業を終えました。
もちろん、この朝礼でも正解を出すつもりはありません。ただ皆さんに知っておいてほしいことは、世の中にはさまざまな正義がある、極端な言い方をすれば、人により正義は異なるということです。
少女を助けるよりシャッターを押すことを優先したカーターには、「現実を世界に伝える」という報道写真家としての正義がありました。その正義を称賛した人もいる一方で、「命を救う」という人としての正義を重んじた人は、カーターを非難しました。もしかしたら、その正義の対立は、カーター自身の中にもあったのかもしれません。カーターは写真を発表した翌年、自ら命を絶っています。
価値観が多様化した現代は、正義も多様化しています。法的に正しいことでも、その法をどう解釈するかで正義は分かれます。道義的に何を正義と考えるかも、その人の信条、思想等で異なります。さらに言うと、ネット上にはたくさんの正義があふれ、正義の名のもとに誰かを徹底的に糾弾し、追いつめています。
自分の正義と、他者の正義。
その両者が対立したとき、力による正義や数の正義で、相手を「不正義」と決めつけるのは簡単です。しかし、それでも相手は、あなたの正義を正義とは認めないでしょう。正義の対立を根本的に解消できる正解はないのです。だとしたら、自分と異なる正義は「不正義」ではなく「もう1つの正義」と考え、正解ではなく共に歩み寄る最適解を求めなければなりません。
その最適解を導くために必要なのは、対立ではなく対話の知恵です。そして、対話の知恵を生み出す源泉になるものが「相手を思いやる心」「相手の立場を尊重する心」だと、私は思っています。