少し前の話になりますが、あるバラエティ番組の中で「熱湯風呂」というコーナーがありました。肌が真っ赤になるほど熱い湯の入ったバスタブに浸かり、熱がる出演者を面白がるコーナーです。別の番組では、舌がやけどするほど熱いおでんを食べさせられたり、罰ゲームで「ケツバット」をされたりした出演者の、熱がったり痛がったりする反応で笑いを誘う企画もありました。
それらも、いわゆるリアクション芸の1つなのかもしれません。ただ、もしそうだとしても、私は人が苦しんだり痛がったりしている姿を見て、笑う気にはなれないのです。
お笑いバラエティ番組ではありませんが、『世界一受けたい授業』や『にほんごであそぼ』等のTV番組でお馴染みの教育者に、齋藤孝さんという方がいらっしゃいます。その齋藤さんが「笑い」について、こんなことを言っていらっしゃいました。
「どこで笑うかに、その人の知性が現れるんですよ」
どこで笑うか、つまり、笑いのツボは人によって異なります。何を面白いと思うか、何を楽しいと感じるかは、人それぞれです。同じことは「どこで笑うか」だけでなく、「どこで怒るか」や「どこで泣くか」にも言えます。それなのに、なぜ特に「笑いと知性」が結びつくのでしょう。以下に、私の考えを述べます。
まず前提として「どこで笑うか」に知性が現れるのであれば、逆に「どこで笑わないか」も知性と深くかかわると考えてください。そして、ここでは分かりやすく、知性を「適切に思考・判断し表現する力」と定義します。そのうえで、今あなたの前に困っている人や苦しんでいる人、辛い目にあっている人、うっかり失敗してしまった人がいるとします。
そのとき、もしあなたに最低限の知性があれば、その人の辛さや悲しみ、痛み、恥ずかしさを思考・判断し、共有するでしょう。そして、感情表現の仕方を適切にコントロールするはずです。少なくともそういう人を見て「笑い」が出ることなど、絶対にないのです。
本校のたった1つの校則『Be Gentleman(紳士であれ)』における「紳士」とは「男女に関係なく、知性に富み、礼儀正しく、思いやりにあふれる人」と定義されています。そんな紳士の条件の1つ「知性」を測る物差しとして「どこで笑うか(笑わないか)」を自分に当てはめてみてください。人が困っている様子や痛がっている様子、傷ついている様子を見て、笑ったり面白がったりしてはいないか?
…と、ここまで講話原稿を書き進めて気づきました。それらはバラエティ番組では「いじり」でも、現実世界では1文字違いの「いじめ」になるのではないかと。だとすれば、人をいじめて面白がるという行為は、「私には最低限の知性すらありません」と宣言する行為に等しいのかもしれません。