1週間前の道徳の時間、7・8年生は「震災」を通して命の尊さや生き方について考える授業を行っていました。そのタイミングで授業を行った理由の1つは、今月1日に能登半島で最大震度7の地震が発生したこと、もう1つは授業2日後の先週17日は阪神・淡路大震災が発生して29年となる日だったことにあります。
その阪神・淡路大震災では6,434人の方が犠牲になられました。本日は、この阪神・淡路大震災に絞って話をしますが、3週間前の能登半島地震や、13年前の東日本大震災にも共通する話として聞いてください。
皆さんは、犠牲者6,434人という数字を見て、どんな感想をもちましたか? 「ひどい」「かわいそう」「怖い」「悲しい」…。人により様々だったと思います。
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確かに「6,434」という数字でくくってしまうと、それは「ひどい」ことであり、「かわいそうな」ことであり、「怖い」「悲しい」ことでもあります。
しかし、その数字の向こう側には、それと同じ数だけ人生があったということ、そして、それらが失われたとき、そのひとつひとつの人生に関わった、家族をはじめとする多くの人々の深い悲しみがあった(あるいは、今も悲しみが続いている)ということを考えた時、私にはその感情を言葉で表すことができません。
阪神・淡路大震災は、皆さんが生まれるずっと前の出来事ですが、29年前にTVニュースなどで目にし耳にした神戸方面の惨状を、私はつい最近のことのように覚えています。
真っ赤な炎と黒煙を吹き上げて燃えさかる町。倒壊したビルや高速道路。瓦礫の山と交通渋滞とでいっこうに現場に到着できず、空しく響く消防車や救急車のサイレン…。そして、そうした被災状況を伝える映像以上に忘れられないのが、震災によって人生が一変した人たちの姿や声です。
地震発生から3日もたって、瓦礫の下から救出された女性の、安堵とも悲しみともつかない涙。
「なんでお父さん、私も(あの世へ)一緒に連れて逝ってくれなかったのか」という、避難所で背を丸めていたお婆さんの呟き。
家の下敷きになって亡くなった母親の話をしながら、倒壊した我が家を蹴り上げた男性。
家族を全て失い、親戚の人に手を引かれていった少年の後ろ姿…。
「6,434」という数字には、それを簡単にひとくくりにしてはいけない「重み」がありました。そして、その「重み」こそ、「災害は忘れた頃にやってくる」という「教訓の重み」であり、今日を生きている私たちが、世代や価値観を超えて心に刻み込んでおかなければならない「生の重み」なのではないでしょうか。
今も連日、能登半島地震の報道が続いています。それを機に、改めておうちの方と「防災」について、「生の重み」について話し合ってもらいたいと思います。特に後者については、日頃改めて「生きるということ」について考える機会の少ない現代人にとって、必要なことです。
どうか皆さん、覚えておいてください。「いかに生きるか」を考えることは大切ですが、「まず生きること」「とにかく生きること」は、さらに大切だということを。
あなたが生きているだけで、ささやかな幸せを感じている誰かが必ずいるのです。あなたという人間を、かけがえのない存在としている誰かが必ずいるのです。あなたが死んだとき、とめどない涙を流す誰かが必ずいるのです。
『生きていてくれさえすれば、それだけでいい』
「生きるということ」の原点は、もしかしたらそういうことなのではないでしょうか。ただ多くの場合、人は「死」を意識して初めて、そのことに気づくだけなのではないでしょうか。
あなたが生きるということ、そして、あなたに限らず一人の人間が生きるということの原点を、その重さを、その尊さを、絶対に忘れないでいてください。