おいしい給食「千草焼き」全国学校給食週間
- 公開日
- 2026/01/27
- 更新日
- 2026/01/27
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1月27日(火)昭和17年頃の給食
今日のメニューは、ご飯、ひじきふりかけ、千草焼き、すいとん、牛乳です。
昭和17年(1942年)頃の学校給食は、まさに「戦争」という時代の荒波に飲み込まれていく過渡期にありました。
1. 時代背景:
学校給食が「義務」から「困難」へ
1940年代に入ると、日本は日中戦争の長期化に加え、
1941年末に太平洋戦争へと突入しました。これにより、食糧事情は急速に悪化していきます。
1940年(昭和15年):「教育的配慮」としての普及文部省から「学校給食実施の奨励」が出され、
児童の体力向上を図るために全国的に広まりました。
1941年(昭和16年):米の配給制開始食糧管理法が制定され、米などの主食が自由に手に入らなくなります。
1942年(昭和17年):戦時下の「体力増強」国としては「将来の兵士・母体」となる子供たちの体力を
維持したいという意図がありましたが、物資不足がその理想を阻み始めました。
2. 給食の献立:乏しくなる内容昭和17年頃になると、それまでの「ご飯とおかず」といった
形を維持するのが難しくなりました。
白米は姿を消し、「代用食」(麦、粟、ヒエなどの雑穀を混ぜたもの)が中心に。
副食(おかず)味噌汁が主流。具材は校庭の隅や空き地で育てた野菜(カボチャやサツマイモ)が使われました。
タンパク質肉や魚は非常に稀。貴重な動物性タンパク質として、稀に小魚が出る程度でした。
3. 「食糧増産」と教育の結びつきこの頃の学校給食は、ただ「食べる」だけではなく、
「自給自足」を学ぶ場としての側面が強くなりました。
学校農園: 運動場を潰して畑にし、児童自らが給食の食材(サツマイモなど)を育てました。
勤労奉仕: 食材を確保することも「国への奉仕」とされ、食事の時間は感謝とともに、戦意高揚の場でもありました。
まとめ:そして「中断」へ昭和17年はまだ辛うじて実施できていた地域もありましたが、
翌18年から19年にかけて戦局が悪化すると、食材も燃料も完全に底を突き、
多くの学校で給食は中断を余儀なくされました。当時の子供たちにとって、
給食は空腹を満たす唯一の希望でありながら、同時に戦争の厳しさを肌で感じる時間でもあったのです。
千草焼きについて
「千草(ちぐさ)焼き」は、名前に「千(たくさん)の草」とある通り、
さまざまな具材を細かく刻んで卵に混ぜ込み、焼き上げた料理のことです。
昭和の学校給食でも、栄養バランスを整えるための定番メニューとして親しまれてきました。
1. 千草焼きの定義と特徴
基本的には「具沢山の卵焼き」ですが、一般的な厚焼き卵とは少し趣が異なります。
名前の由来: 「千草」とは、多種多様な草花が咲き乱れる様子を指します。
料理においては「たくさんの材料を組み合わせる」という意味で使われます。
調理法: 溶き卵にだし汁や調味料を加え、細かく刻んだ具材を混ぜてから、
オーブンで焼いたり、フライパンで厚めに焼き上げたりします。
食感: 具材がたっぷり入るため、卵のふわふわ感の中に、野菜のシャキシャキ感や肉・魚介の旨味が凝縮されています。
2. よく使われる具材
冷蔵庫の余り物でも作れる「懐の深さ」が魅力です。
野菜: 人参、椎茸(または干し椎茸)、ほうれん草、玉ねぎ、長ねぎ
タンパク質: 鶏ひき肉、カニカマ、油揚げ、ひじき、しらす
調味料: 出汁、醤油、砂糖、みりん(少し甘めの味付けが一般的です)
3. 学校給食での「千草焼き」
給食における千草焼きには、栄養士さんの工夫が詰まっていました。
なぜ給食によく出るのか?
卵単体では不足しがちな食物繊維(しいたけやひじき)やビタミン(人参やほうれん草)を、
子供が好きな卵味で一度に摂取できるためです。また、大量調理の際は、
大きな天板に流し込んでオーブンで焼き、後から切り分けることができるため、
効率的なメニューでもありました。
すいとん
「すいとん(水団)」は、日本人にとって非常に馴染み深い料理ですが、
特に昭和初期の戦争中から戦後にかけては、「国民の命を繋いだ食」として特別な歴史的意味を持っています。
1. すいとんとは?
小麦粉に水を加えて練り、手でちぎったり丸めたりして、汁物に入れて煮込んだ料理です。
名前の由来: 平安時代からある「水団(すいだん)」という菓子が変化したものと言われています。
地域性: 全国で食べられており、岩手県の「ひっつみ」や群馬県の「おきりこみ(の団子)」など、
呼び名や形は地域ごとに多様です。
2. 昭和17年前後:戦時下の「すいとん」冒頭でお話しした昭和17年頃、米が極度に不足したため、
政府は「米を食べない日(廃米日)」を設け、代用食としてすいとんを強く推奨しました。
しかし、当時のすいとんは、私たちが今想像するものとはかけ離れた過酷なものでした。
「具」がない: 野菜はほとんど入っておらず、出汁を取る煮干しすら貴重でした。
「粉」が悪い: 小麦粉だけでなく、大豆のカス、トウモロコシの粉、ひどい時には「ふすま(麦の殻)」を混ぜた、
ジャリジャリとした灰色の粉が使われました。
「水」で増量: 腹持ちを良くするために粉を水でベチャベチャに溶き、わずかな塩味で煮込んだだけのものが多く、
当時の子供たちからは「美味しくない食べ物」の代名詞として記憶されています。
3. 現代のすいとんとの違い
今の私たちが食べるすいとんは、いわば「ご馳走」です。戦時中との違いを比較!
戦時中のすいとん・現代のすいとん
生地質の悪い代用粉(ふすま混じり)
質の良い小麦粉(薄力粉・強力粉)
食感ボソボソ、またはベチャベチャもちもち、つるつる
出汁ほとんど無し(お湯に近い)昆布、鰹、煮干しの豊かな風味具材ほとんど無し鶏肉、
大根、人参、ごぼう、長ねぎ等
4. なぜ「すいとん」は語り継がれるのか
戦後、食糧難が落ち着くとすいとんは食卓から一度姿を消しました。
「苦しい時代を思い出すから見たくもない」という高齢者の方も多かったためです。
しかし現在では、「災害時の非常食」としての有用性や、「郷土料理」としての価値が見直されています。
モチモチとした食感は、今や老若男女に愛される日本のソウルフードの一つになりました。
昭和17年頃、食事は単なる「栄養補給」ではなく、「国を支えるための心身の鍛錬」という非常に厳しい精神教育の場となっていました。
当時の子供たちが、すいとんを前にどのような訓示を受けていたのか、その精神的な背景を紐解きます。
1. 食事の前の決まり文句:食前訓
当時の学校給食や家庭では、食べる前に全員で声を合わせる儀式がありました。
「箸(はし)取らば、母上、父上、国の人、進ぜし君を忘な(わすれな)思いそ」
(箸を取る時は、両親や国の人々、そして食事を与えてくださる天皇陛下への感謝を忘れてはならない)
このように、一切れの「すいとん」であっても、それは「国から授かった尊いもの」であり、
不平不満を言うことは許されない雰囲気がありました。
2. 「不味い」と言えない空気:忍苦の精神
前述の通り、当時のすいとんは砂が混じったような食感や、嫌な臭いがすることも珍しくありませんでした。
しかし、教育現場では以下のような指導が徹底されていました。
「贅沢は敵だ」: 美味しいものを欲しがること自体が「非国民」的であるという風潮。
「噛みしめて食べよ」: 少ない量を誤魔化すため、また消化を良くするために、何度も何度も噛むことが推奨されました。
残すことは「罪」: 兵隊さんが戦地で苦労している中、食べ物を残すことは最大の不忠とされ、一滴の汁まで飲み干すことが求められました。
3. 精神的なスローガン
学校の壁や食堂には、子供たちの心を引き締めるための標語が掲げられていました。
「欲しがりません勝つまでは」
「一粒の米も無駄にすまい」
「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」
これらの言葉のもと、「お腹が空いた」という自然な感情さえも、
「我慢することが勝利に繋がる」という精神論に置き換えられていたのです。
4. 食事を通じた「国防」
この時代の給食(すいとん等)は、健民健兵(けんみんけんぺい)」という思想に基づいていました。
目的: 将来、立派な兵士や強い母体になるために、粗末な食事でも頑健な体を作らねばならない。
実態: しかし実際には、カロリーもタンパク質も圧倒的に不足しており、精神論とは裏腹に子供たちの体格は年々低下していきました。
まとめ:記憶の中の「すいとん」
当時の子供たちにとって、給食のすいとんは「ひもじさを凌ぐ唯一の手段」でありながら、
同時に「お国のために我慢を強集される象徴」でもありました。
戦後、多くの人々が「もう二度とすいとんは食べたくない」と言ったのは、単に味が悪かったからだけでなく、
その背後にあった息苦しい精神教育の記憶と結びついていたからかもしれません。
昭和17年頃の学校は、もはや学び舎というより「小さな兵舎」のような場所になっていました。
1941年(昭和16年)に小学校が「国民学校」と改称され、
教育の目的が「皇国民の錬成(天皇に仕える国民を作ること)」に一本化されたためです。
せっかくなので、当時の運動会や体育(当時は「体錬科」と呼ばれました)が、どのように変貌していたか!
1. 体育から「体錬(たいれん)」へ
教科名が「体育」から「体錬科」に変わりました。
これは単なる運動ではなく、戦うための体と心を鍛える「訓練」であることを意味していました。
行進の徹底: 授業の始まりや移動はすべて軍隊式の行進。指先までピンと伸ばし、歩調を揃えることが厳しく指導されました。
武道の必修化: 男子は剣道や柔道、さらには「銃剣道(木銃を使った訓練)」が重視されました。
手旗信号や地図判読: 遊びの時間は減り、実際の戦場で役立つ実技が授業に組み込まれました。
2. 運動会の変容:戦意高揚のイベント
かつての楽しい運動会は、戦時下では「全校練成大会」のような性質を帯びるようになります。
競技内容の変化:
障害物競走: 敵の陣地を突破する「突撃」に見立てられました。
手旗信号競争: 司令部の命令を正しく伝える速さを競いました。
担架運び: 負傷した兵士を運ぶ訓練を兼ねていました。
応援歌: 運動会の歌の代わりに、軍歌や戦時歌謡が歌われ、万歳三唱で締めくくられるのが常でした。
3. 「集団」という武器
この時代の教育が最も重視したのは「個人の抹消と集団の統一」です。
組体操のルーツ 現在の日本の運動会で見られる「組体操」や「一糸乱れぬ行進」は、
この時代の軍隊教育の名残が一部含まれています。個々がバラバラに動くことは「乱れ」とされ、
全員が機械のように同じ動きをすることが「美徳」であり「強さ」だと教え込まれました。
4. 運動場の変貌
昭和17年頃になると、運動場さえも「運動をする場所」ではなくなっていきます。
校庭の開墾: 食糧難を補うため、運動場の大部分が耕され、カボチャやサツマイモの畑になりました。
防空壕掘り: 運動の時間の代わりに、空襲に備えて校庭の隅に防空壕を掘る作業(勤労奉仕)が行われるようになりました。
5. 子供たちの遊びの変質
学校の管理下だけでなく、放課後の遊びも戦争一色でした。
戦争ごっこ: 木の棒を銃に見立てた「兵隊さんごっこ」が流行。
模型作り: 工作の時間や趣味で作るのは、軍艦や戦闘機の模型でした。
このように、昭和17年の子供たちは、給食(すいとん)で飢えを凌ぎ、体錬で体を追い込み、
精神的にも肉体的にも「戦争」という巨大な渦の中に組み込まれていました。
昭和17年頃の子供たちの「服装」と「教科書」について
この時期は、見た目も頭の中も、徹底的に「戦時カラー」に染め上げられていった時代です。
1. 子供たちの服装:小さな兵隊と国防婦人
昭和17年頃になると、物資不足(綿や羊毛の不足)により、華やかな服は姿を消しました。
男子:国民服と戦闘帽 大人と同じデザインの「国民服(カーキ色の制服)」を模したものや、
詰め襟の学生服が一般的でした。帽子は「戦闘帽(ピッケ帽)」と呼ばれる、現在の自衛隊の帽子に近い形のものが普及しました。
女子:もんぺの普及 それまでのセーラー服やスカートは「活動的でない」「贅沢だ」と敬遠され、
動きやすい「もんぺ」(袴のような作業着)の着用が強く推奨されるようになりました。
足元:下駄やわらじ 革靴やゴム靴は軍需品として優先されたため、子供たちは木の下駄や、
自分たちで編んだ「わらじ」で通学することもありました。
2. 教科書の内容:「ヨイコドモ」から「臣民」へ
1941年(昭和16年)に始まった「国民学校」用の教科書は、それまでのものとは一線を画す内容でした。
低学年向け(アカイ・アカイ): 以前の教科書は「ハナ・ハト・マメ」のような身近な言葉から始まりましたが、
戦時下では「ススメ・ススメ・ヘイタイ・ススメ」といった言葉が最初に教えられました。
算数: 「リンゴが3つあります」という例題が、「軍艦が3隻あります」「弾丸が何発あります」といった、
軍事に関連する数え方に置き換えられました。
理科・地理: 日本の領土がいかに広がっているか、日本がアジアを指導する立場にあるという「大東亜共栄圏」の思想が強く反映されていました。
3. 学童疎開の前夜(昭和17年の空気)
昭和17年という年は、まだ「本格的な空襲」は始まっていませんでしたが、
4月にドーリットル空襲(アメリカ機による日本本土への初空襲)が起こり、人々の間に緊張が走った年です。
防空訓練: 授業中、空襲警報のサイレンが鳴ると、防空頭巾を被って素早く避難する訓練が日常化しました。
名前の書き込み: 自分の持ち物や衣服の裏には、空襲で亡くなった際や迷子になった際に身元がわかるよう、
住所・氏名・血液型を大きく書くことが義務付けられました。
4. 精神の拠り所:奉安殿(ほうあんでん)
当時の学校には、校舎とは別に「奉安殿」という小さな建物がありました。
そこには天皇陛下の写真(御真影)と教育勅語が納められており、子供たちは登下校の際、
その前を通るたびに最敬礼(深いお辞儀)をしなければなりませんでした。もし怠れば、先生から厳しく叱責されるような時代でした。
まとめ:日常に溶け込む「非日常」
昭和17年の子供たちにとって、軍服のような服を着て、軍艦の数を数える勉強をし、
すいとんを食べることは、もはや「異常」ではなく「当たり前の日常」になっていました。
こうした生活がさらに過酷になり、親元を離れて田舎へ逃げる「学童疎開」が本格化するのは、この約2年後の昭和19年からのことです。
戦時下の重苦しい空気の中でも、子供たちは子供なりに楽しみを見つけていました。
しかし、その「遊び」さえも時代の影を色濃く反映していたのが、昭和17年頃の特徴です。
当時の子供たちが夢中になった娯楽や、わずかな心の拠り所について解説します。
1. 街頭のヒーロー:紙芝居
テレビもゲームもない時代、子供たちの最大の娯楽は「紙芝居」でした。
拍子木の「カチカチッ」という音が聞こえると、子供たちは小銭(1銭や2銭)を握りしめて集まりました。
黄金バット: 戦前から続く超人気作で、子供たちのヒーローでした。
国策紙芝居: 昭和17年頃になると、軍事色の強い内容が増えました。
爆弾三勇士の物語や、敵機を見分ける方法を教えるような内容が、面白おかしく語られました。
2. 伝統的な遊びの「戦時版」
普段の遊びも、自然と「戦争」の要素が混じり合っていきました。
めんこ(パッチン): 描かれている絵柄は、勇ましい兵隊さん、戦艦「長門」や「大和」、戦闘機「ゼロ戦」などが主流でした。
模型飛行機: 竹ひごと紙で作るプロペラ機が大流行しました。どれだけ長く飛ばせるかを競いましたが、
これは将来の航空兵への憧れとも直結していました。
ゴム鉄砲・木刀: チャンバラごっこは「敵を倒す訓練」として奨励される側面もありました。
3. 漫画と雑誌
当時の子供向け雑誌(『子供の国』や『少年倶楽部』など)も、娯楽の王道でした。
のらくろ: 田河水泡による、犬の兵隊が活躍する漫画。非常に人気がありましたが、
戦争が激化するにつれ「軍隊を不真面目に描いている」といった検閲の目が厳しくなり、昭和16年に連載終了に追い込まれました。
軍事読み物: 雑誌の付録には「連合艦隊一覧図」や「世界の戦闘機図鑑」などがつき、子供たちはそれを暗記するほど眺めていました。
4. 季節の楽しみと「食」の記憶
娯楽が減る中で、季節ごとの自然の恵みは最大のプレゼントでした。
野山の恵み: おやつが手に入らないため、子供たちは放課後に桑の実、アケビ、グミ、山桃などを探して食べました。
イナゴ獲り: 秋になると学校行事として「イナゴ獲り」が行われました。
これは単なる遊びではなく、貴重なタンパク質(食糧)の確保と、
害虫駆除を兼ねた「奉仕活動」でもありましたが、子供たちにとっては数少ないイベントの一つでした。
5. ラジオ放送
家庭での娯楽の中心はラジオでした。
前線への便り: 戦地の兵隊さんを励ます番組や、勇ましいニュース放送が流れる中、子供たちは遠く離れた戦場に思いを馳せていました。
まとめ:失われていく「子供らしさ」
昭和17年は、まだギリギリ「遊び」の中に笑いがあった時期かもしれません。
しかし、これ以降、空襲が激しくなり、学童疎開が始まると、子供たちの時間は
「生き延びること」と「働くこと(勤労動員)」に占領されていきます。
昭和17年の学校給食(すいとん)から始まったこのお話を通して、当時の子供たちがどれほど厳しい制約の中で、
それでも懸命に日々を過ごしていたかが伝われば幸いです。
ぜひ、現代と比較してみてください。いかに、恵まれた時代に生きているかを実感できると思います。
何かと、今は今で、厳しいことも多いですが、当時の方が紡いでくれたからこその現代ということを
いつも忘れずに、感謝の心を持ち、時代を継承していかないとならないですね。
本日より、3日間、インフルエンザの感染拡大を防ぐために、放課後の活動はなしになります。
不要不急の外出を控えて、これ以上の感染拡大を、みんなで防ぎましょう。
しばらくは、マスクもしっかりと着用し、こまめに手洗いをして、まずは、
自分自身の健康を保ちましょう。
記事 風見 一統