あけましおておめでとうございます。今年最初の講話も、2学期終業式に続いてサッカー W杯 を絡めた話で恐縮ですが、聞いてください。
昨年のW杯では、予選リーグで日本が強豪のドイツやスペインを破った試合が『ドーハの歓喜』と呼ばれました。これは『ドーハの悲劇』と対義的に用いたフレーズで、ドーハはW杯開催地カタールの首都です。
そのドーハで、今から30年前の1993年10月28日、日本は悲願のW杯初出場をかけ、アジア予選の最終戦をイラクと戦っていました。勝てば初出場を決めたこの試合、日本は試合終了間際までリードしていながら、ロスタイムに1点を奪われ引き分けとなり、目の前にあった初出場を逃します。
これが、後に『ドーハの悲劇』と呼ばれるようになった試合です。
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私は、TV中継でその瞬間をリアルに目撃しました。そして、茫然自失(気が抜けて、我を忘れたような状態)となったことを覚えています。ただ、同じ試合の中で私には、そんな『悲劇』の瞬間以上に印象に残った光景がありました。
今や当たり前になっていますが、サッカーに限らず野球やラグビーなど多くのスポーツの国際試合では、両国の国歌を演奏し選手が歌います。しかし、30年前に私が見た限り、当時国歌を歌う日本人選手は、ほとんどいませんでした。
あえて「ほとんど」と言ったのは、ピッチに整列した(今回のW杯で監督を務めた森保選手を含む)先発11人のうち2人だけは、堂々と国歌を歌っていたからです。1人は、現在も現役最高齢55歳のJリーガー・三浦知良選手で、もう1人は当時の背番号10番・ラモス瑠偉選手でした。
三浦選手は15歳の時、高校を中退して単身ブラジルに渡り、1人で8年間に及ぶサッカー修行を積みます。その間の様々な苦労は割愛しますが、日本のW杯初出場に貢献するため帰国したのは『ドーハの悲劇』の3年前、1990年のことでした。
もう1人のラモス選手は、生粋のブラジル人です。しかし、これも詳しい経緯は割愛しますが、20歳の時に来日して日本でプレーします。そして、その後日本に帰化し(日本国籍を取得し)、日本代表としてW杯出場を目指していました。
皆さんと変わらない年齢で単身日本を離れ、異国の地で青春時代の大半を過ごした三浦選手…。その異国から来日して日本国籍を取得し、日本人として生きる道を選んだラモス選手…。
日本人に生まれ、ずっと日本でプレーしている9人が黙って演奏を聞いている中で、そんな2人だけは国歌を歌っている光景が、私には『悲劇』以上に印象的だったのです。
誤解のないように言っておくと、年頭にあたって私が語りたいのは、国歌についてではありません。故郷(ふるさと)についてです。
日本を故郷と呼ぶならば、その故郷を長く離れていた三浦選手と、人生の途中で新たな故郷に移り住んだラモス選手の逸話に、故郷を大事に思う気持ちを感じてほしいと思ったのです。だからといって皆さんに、いきなり「故郷日本」とは言いません。まずは「いたばし」でいいのです。
2学期の道徳で9年生は、地域貢献とも関連する『町内会デビュー』という題材を用いました。同じく8年生は、社会の授業で探究学習『地域の歴史』に取り組みました。7年生は2月の校外学習『地域巡り』に向け調べ学習をしています。
今年はそうした学習活動も含め、教科や道徳・総合など様々な授業で、故郷いたばしを大事に思う心や、故郷いたばしへの郷土愛を少しずつ育んでいってください。
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余談ですが、昨年のW杯で日本選手は全員、堂々と国歌を歌っていました。中でもベンチ前で一番大きな口を開けて歌っていたのが、選手としてピッチにいた30年前は、ただ突っ立っていただけの森保監督です。
そんな監督を見て私が感じたのは『悲劇』でも『歓喜』でもなく、『ドーハの安堵(ホッとする気持ち)』でした。