実は、忘れもしない13年前のちょうど今頃、私はある病気で視力を失いかけたことがあります。時間の関係上病気の説明はしませんが、幸い早い段階で適切な治療を受けられたので助かったものの、一時は失明の危機にさらされました。
3日間の集中治療を受け視力を回復し、退院した私の目に飛び込んできたのは、大学病院の庭先の美しい木々の紅葉でした。私は今も、あの時の鮮やかな赤や黄色を忘れることができません。
そして、【目から鱗が落ちる】という慣用句を引き合いに出すと、つまらないシャレのようになってしまいますが、失明の危機は私にとって、それまで無意識に行っていた「見る」という行為を、意識して行うきっかけとなったのです。
映画『もののけ姫』で、主人公のアシタカという若者は、怨念によって悪霊と化したイノシシを殺したため、死の呪いをかけられてしまいます。その呪いの謎を解くため、アシタカは1人旅に出ます。そうして訪れた「たたら場(昔の製鉄所)」で、女主人のエボシから「呪いの謎を知って、どうするのか?」と問われ、こう答えるのです。
「曇りなき眼で見定め、決める」
少しカッコつけると、視力を失う恐怖に怯え、その恐怖から救われた安堵感と共に美しい紅葉を見たとき、私はアシタカと同じようなことを思ったのです。それは「見る」という行為を、もっと大事に、もっと丁寧に行おうという思いでした。
言い方を換えれば、それまでの自分がいかに曇った目で物事や人を見ていたかを反省したのです。それと同時に思い出したのが先のアシタカのセリフであり、今回映画を観にいったもう1つの理由につながるのです。
木々の葉は、季節の移ろいとともに少しずつ色づいていたのに、ある日突然赤や黄色の極彩色に彩られたと勘違いしていなかったか?
遠くの美しい虹に目を奪われて、足下に咲く一輪の花を踏みつぶしていなかったか? 人を、先入観や偏見で見ていなかったか? 物事を、自分にとって都合がいいか悪いかで見ていなかったか?
さらにそうした間違ったものの見方は、いつか自分の心の目まで曇らせ、その時々の判断を誤らせていなかったか…?
今、私たちは当たり前のように「見る」という行為をしています。しかし、「当たり前」であるがゆえに、いい加減な見方をしたり、大事なものを見落としたりしていることもあるはずです。曇りなき眼で、ちっぽけな自然の美しさや、ささやかな季節の変化に気づける人でありましょう。人の嫌なところではなく、良いところに目を向けられる人でありましょう。
偏見や先入観、損得勘定だけで人や物事を見てはいけません。また、周囲に流されず、何が正しくて何が間違っているのかを、しっかり見極めなければいけません。笑顔の裏側にある彼女の悲しみを、乱暴な言動の陰に隠した彼の弱さを、どうか見抜いてやってください。回りの人たちが「黒い」と言ったからといって、自分は「白い」と思ったものを「黒」と言い間違えないでください。
「曇りなき眼で見定め、決める」
この秋、映画『もののけ姫』や美しい紅葉を見て、改めて私はその言葉をかみしめました。そして、少なくとも自分で自分の目を曇らせるようなことをしてはいけないと、決意を新たにしたところです。