言うまでもなく、来週11日は、東日本大震災が発生して10年目の節目の日です。先月13日には、その余震とされる震度6強の地震が、福島・宮城で観測されたこともあり、改めて10年前の「あの日」を話題にしているご家庭も、多いのではないでしょうか。
今日は、その東日本大震災を機に私の心に深く刻まれた、ある「思い」について話をさせてもらいます。いつもより長くなりますが、少しだけ我慢して付き合ってください。
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今私の話を聞きながら見ている『校長通信』の3面を、ちらっと開いてください。これは10年前の3月24日、つまり、東日本大震災が発生して13日後に発行された読売新聞の紙面を、縮小コピーしたものです(上の画像)。
目がチカチカしたかもしれませんが、見出しから推察できたかと思います。この紙面に掲載されているのは「震災によって亡くなられた方々」です。正確に言うと「震災によって亡くなられた方々のうち、新聞発行日の前日、つまり3月23日に身元が確認できた方々」です。
なぜ当時私がこの紙面をコピーしてとっておいたかは、後ほど分かります。
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私の数え間違いがなければ、この紙面には775人の方が載っています。もちろん、その後も身元の確認できた犠牲者の数は増え続け、しばらくの間は連日のようにこうした紙面を目にしました。
では、皆さんに質問します。昨年の時点で、この震災で亡くなった方は何人いらっしゃると思いますか。次の3つの中から手を挙げてください(震災関連死を除く)。
1.約1万人
2.約1万5000人
3.約2万人
正解は、2番です。昨年の警察庁の発表では、身元の確認できている犠牲者の数は1万5899人です。ただ、同日現在の行方不明者数2529人を加えると、その数は1万8428人に達するので、3番が正解に近いかもしれません。
ちなみに今年度(5月現在)、板橋区立中学校に在籍する生徒の総数は、9131人です。その2倍以上の方々が、「あの日」に命を落とされたことになります。
東日本大震災のことを報じるニュース番組等では、時折そうした被害の大きさを伝える言い方として「約1万6000人が亡くなった」とか「死者・行方不明者あわせて2万人近い方が犠牲になった」といった表現を耳にします。
しかし、私は、亡くなった方々を「約1万6000人」とか、「およそ」とか「ほぼ」とかいった大まかなくくり方で表し、その言い方に慣れてしまってはいけないと思っています。
まず私たちが目を向けるべきは、その一人ひとりに、家族や友達など人と人との繋がりがあったということ、そして、震災さえなければ、今も続いていたであろうそれぞれの人生があったということです。今日、10年前の新聞のコピーを掲載したのも、そのことに目を向けてもらいたかったからです。
後で時間のあるときに、ルーペでも使って見てください。
一人ひとりに名前があります。生活していた場所が書かれています。あの日、あの時まで生きてきた「人生の長さ」、つまり年齢も記されています。
100歳を越えている方がいらっしゃいます(枠内6段目・右側)。
明治生まれのこの方には、いったい何人の息子・娘がいて、何人の孫がいて、何人の曾孫、あるいは玄孫がいたのかと考えます。
0歳の赤ちゃんがいます(枠内1段目・左端)。
この子は、この世に生のあったわずかな時間に、お父さんやお母さんからどれだけの愛情を注がれ、逆にその汚れのない笑顔や寝顔で、お父さんやお母さんにどれだけの幸せを与えたのかを思います。
12歳、13歳、14歳、15歳…。 まさに皆さんと同じ、中学生時代を生きていた人たちの名前があります。
皆さんがそうであるように、その一人ひとりに家族があり、友達があり、毎日毎日繰り返される学校生活があり、悩みがあり、不安があり、将来の夢があり、無限の可能性があったことを思うのです。
ただ、誤解を恐れず言わせてもらうならば、彼らはその死によって悲しみや苦しみ、恐怖から解放されました。しかし、生き残った人たちは、今もなお悲しみを引きずり、大切な人を救えなかった自責の念にとらわれているのです。
私の脳裏には、当時TVニュースで見た津波の衝撃的な映像以上に、そうした人々の苦悩の表情のほうが焼き付いています。
お孫さんを亡くしたお婆さんが、「できれば、代わりにこの命を持っていってほしかった」と、声にならない声を、海に向かってふりしぼっていらっしゃいました。
やっとつながった携帯電話で、「母ちゃんは、ダメだった。俺が死なせてしまった」と、親族に報告している男性がいました。津波に流される両親に手を伸ばしたものの母親の腕をつかみ損ね、父親しか救えなかったのだそうです。
10年前の3月11日、私が勤務していた学校には、宮城県気仙沼市出身で新規採用の女性教員A先生がいらっしゃいました。そして、震災直後、A先生の弟さんが行方不明との連絡を受けました。
残念ながら遺体安置所で弟さんの身元が確認されたのは、震災発生後12日目、3月23日のことでした。つまり、私がコピーをとった3月24日付の新聞紙面(本紙3面)には、A先生の弟さんの名前も記載されているのです。
私は、その悲しい事実を校長室に報告に来たときの、A先生の表情と言葉を忘れることができません。何とお悔やみの言葉を述べたらよいか迷っている私に対し、A先生は目にいっぱい涙を浮かべながら、それでも必死に笑顔をつくって、私にこう言ったのです。
【家族の行方さえわからない人が大勢いる中で、せめて身元が確認できただけでも、有り難いことだと思っています。私は、弟を家族の元に返してくれた海に、感謝しています】
私は、あれほど気高く、あれほど悲しい女性の笑みを見たのは、初めてでした。現在A先生は、一度東京都の教員を退職して宮城県に戻り、故郷で再び教員生活を送られています。
2011年(平成23)3月11日。「あの日」、かけがえのない多くの命が奪われました。そして、その命と繋がっていたさらにたくさんの人々が、大きな悲しみと心の傷をかかえて生きていくことになりました。
今日私が話したのは、そうした事実のほんの一端に過ぎません。
次のページに記載された775人の方々は、「あの日」までどんな人生を歩まれていたのでしょうか? いったい何人の人との繋がりの中で生きていたのでしょうか…? それを思ったとき、今回の校長通信が、今までよりほんの少しだけ重く感じられませんか?
人は、直接的であれ間接的であれ、たくさんの人との繋がりの中で生きています。家族・友達・先生・近所に住む地域の方々…。そして、それらの一人ひとりも、また枝分かれをするように多くの人と繋がっているのです。
そうした繋がりのどこかで、あなたの幸せを喜び、あなたの不幸せを悲しむ人がいます。10年前私が、会ったこともない東北の若者の死に心を痛めたのも、その若者と私が、A先生を介して繋がっていたからに他なりません。
人は、一人で生きているわけではありません。おそらく、いえ、間違いなく、自分の想像を超えて多くの人と繋がり、自分の知らないところで誰かに影響を与え、自分の知らないところで誰かに支えられて生きているのです。
その自覚があれば、自分を粗末に扱うことはできないと思います。つまり「自分を大切にする」ということは、「自分さえ良ければいい」とすることではなく、「人との繋がりの中で自分をとらえる」ということなのです。
同時に、自分以外の人も、自分と同じように多くの人と繋がっているということを忘れてはいけません。人を傷つけたり悲しませたりすることは、その人と繋がりのある人たちをも、傷つけたり悲しませたりすることになるのです。
私は10年前の「あの日」を機に、そう思うようになりました。だからこそ3・11は、私にとって「忘れない日」ではなく「忘れてはいけない日」なのです。
今日は東日本大震災について、あえて防災ではなく「人と人との繋がり」という視点で話しました。
私も、皆さんと繋がっています。その繋がりを、心から愛おしく思い、大切にしたいと考えています。
長い話を聞いてくれて、有り難うございました。