板四小の歴史
板四小ができた年
板四小ができたのは、昭和3年4月1日に東京府北豊島郡板橋第四尋常小学校として開校しました。そして、5月6日開校式が行われたので開校記念日と決まりました。板四小が建 てられた土地は、そのころ三合商会という会社が持っていたので、「三五ッ原」と呼ばれ広い野原でした。校歌にも「三五野原」と歌われています。
学校の様子
私たちの学校ができたのは、今から94年ほど前です。 はじめは、新しく建てた建物ではなく、今の港区の白金小学校の古い校舎を移したものでした。それでも当時としては、りっぱな建物だったと言われています。建物の材料は全部木で、屋根は赤いかわらぶきで、2階建てだったそうです。学校に入る門は今の職員室や保健室前あたりにあったそうです。運動場には、大きな砂場があって、すもうをして遊んだり、石けりや鉄棒、ろく木で遊んだりしたそうです。プールがなかったので、夏は石神井川で泳いで遊ぶ子もいたそうです。学校ができてしばらくは、教室が足りなかったので、午前に勉強する子たちと午後から勉強する子たちの2回に分けて授業を行いました。
戦争のころ
戦争とともに、学校では、つな引き、棒たおし、騎馬戦、相撲などの元気のよい運動が大切にされるようになりました。遠足も体をきたえるために、乗り物は使わないで遠くまで歩きました。昭和16年になると、板四小は名前も変わりました。東京市板橋第四国民学校となりました。同じ年に、教科書や勉強する科目、成績のつけ方なども変わりました。戦争が激しくなり、東京にも敵の飛行機が飛んで来て、爆弾を落としました。学校で勉強中でも、空襲のサイレンがなると、先生と一緒に防空ごうに避難しました。学校に来ても、落ちついて勉強することはできず、1日に何回も避難をくり返したこともありました。防空ずきんをかぶり、国民服とか、もんぺとかをはいていました。新教科書もクラスの子どもの数だけこないので、くじびきやじゃんけんでもらう子を決めました。新しい教科書のない子は、お兄さんお姉さんや近所の大きい人から借りて勉強をしました。運動靴やボールもお店では売れないようになっていましたから、「南の国の兵隊さんのおくり物」として、学校で1組に1個ぐらいの配給になりました。
新しい学校の始まり
戦争で校舎が焼けたため、都内の多くの学校は、ほかの学校やお寺を借りて勉強しました。青空教室といって、外で勉強をしました。本校は、昭和20年5月に、板橋第一小学校を借りて、授業をはじめました。昭和20年10月には、都立九中(今の北園高校)に移りました。そのころには疎開した子どもたちも帰ってきて、12学級で授業が行われました。