毎時間のように授業を回っている私には、毎時間のように「素晴らしいな」と思う場面と「残念だな」と思う場面とがあります。それは、始業・終業でかける号令の場面です。
「起立」「気をつけ」「礼」「前へならえ」…。学校ではさまざまな号令がかけられます。号令とは、集団が安全かつ円滑に行動するために発する指示や命令のことです。また、授業の始業や終業、給食の開始や終了の際など集団行動の節目に、礼儀を示すためにかける場合もあります。
したがって、号令に従わない人がいると、集団の安全が脅かされたり、秩序や和が乱れたりすることもあります。そんなことから私は、号令とは集団生活の約束でもあると考えています。
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ここでいう約束とは「集団の質を高めるために、守るように定めたきまり事」といった意味です。当たり前のことですが、約束である以上、それは守らなければなりません。守れない号令なら、かけない方がいいとさえ思います。それだけに、逆に意味のない号令を乱発してはいけないとも思います。
少し前に話題をよんだ『不適切にもほどがある!』というTVドラマでは、令和の現代では考えられないようなスパルタ教育を行う「昭和の学校や先生」も描かれていました。
かつて私もそんな「昭和の中学校」に通いましたが、そこには生徒がきちんと整列できているのに「前へならえ」→「直れ」→「もう1度、前へならえ」→「直れ」を繰り返す先生がいました。さらに、なぜか途中から「縦だけでなく横もそろえろ!」と怒り出すのです。
「前へならえ」では列の先頭で手を腰に当てた人が基準ですが、横をそろえるには誰を基準にすれば良いのか全くわかりません。そのため皆が左右をキョロキョロ見ながら、なんとなく腕の1番長い人にそろえて、先生の怒りが鎮まるのを待った記憶があります。
繰り返しますが、号令は集団生活における約束です。約束だからこそ、それは最低限の単指示(単純明快で短い指示)に限定したうえでしっかり守る(守らせる)べきだと、私は「不適切にもほどがある昭和の先生」から学びました。
板三中で、そのような意味のない号令が乱発されることはありません。代わりに「乱発」ではなく、授業のたびに生徒のかける素晴らしい号令があります。それは「目を見て挨拶をしましょう」という号令です。板三中で初めて聞いた号令ですが、【語先後礼】という言葉は知っていたのですぐにピンときました。
【語先後礼】の意味は、字を見ればわかります。【語先】つまり言葉が先で、【後礼】お辞儀は後という意味です。まず相手の目を見て挨拶言葉を述べ、それを言い終えて初めて頭を下げるという、挨拶の礼法を表す言葉です。
私は、そんな意味のある号令を聞くたびに「素晴らしいな」と思う一方、直後にそれを実践できない人がいることを「残念だな」と思ってしまいます。その人が始業や終業の挨拶をしない、というのではありません。
「目を見て挨拶をしましょう」と言われているのに、挨拶の言葉を発しながら頭を下げる(人によっては言葉を発しながら座ってしまう)、いわば「語礼同時」になっているのです。これではせっかくの意味が薄れ、単なる始業・終業の合図と化してしまうでしょう。
【仏つくって魂入れず】という諺があります。「せっかく立派なものをつくっても、最後に肝心なものが抜け落ちている」といった意味です。素晴らしい意味の込められた号令をかけて(仏つくって)も、それを行動に移さない(魂入れず)のでは、それこそ不適切にもほどがあります!
全員ができるまで、何回でもやり直してください。それは、「意味のない号令の乱発」ではありません。集団の質を高め、皆が気持ちよい学校生活を送るための「意味ある約束の順守」なのです。