今度の日曜日は「父の日」です。
私も例年この時期、すでに独立している2人の娘から未だに「何か欲しいプレゼント、ある?」と聞かれます。そして、「何もいらないよ」と答えて「それだと困る」と返され、「じゃあ、何でもいいよ」と言うと「それが一番困る」と嫌な顔をされるのも恒例化しています。
5月の「母の日」から「父の日」と続く約1ヶ月間は、いつも以上に「母・父」という字を目にする、いわば「親の日」月間と言えるかもしれません。
そのせいか、私もつい【親】というものについて考えさせられます。私にとって【親】である亡き父や90歳になった母について。娘にとって【親】である自分自身について。そして、皆さんにとって【親】である保護者の皆様について…。
さて、【親】とはどういう存在なのでしょう? ここからは、皆さんの語彙力向上も兼ねたKMT(校長ミーニングタイム)とします。
※ 続きは、下の『おりたたみ記事』をクリックしてください。
先日、図書室に置いてある広辞苑という分厚い辞書で【親】の意味を調べてみました。最初に載っていた意味が【父と母の汎称(総称)。子をもつ者】です。
他にもいくつかの意味が載っていましたが、その後に【親】を使った諺や慣用句が紹介されていました。そして、それらが太字で印刷されていたため、つい私の目はそちらに移ってしまいました。
その最初に紹介されていたのが【親思う心にまさる親心】です。意味は「親を思う子の心よりも、子を思う親の心は深い」とありました。さらに【親思う心にまさる親心けふのおとづれなにときくらむ】という吉田松陰の詠んだ短歌の上の句が語源であると、付記されていました。
9年生は知っていると思いますが、吉田松陰は幕末の思想家・教育者です。松陰は幕府の思想弾圧により、30歳という若さで処刑されてしまいます。
詳しくは歴史の授業に譲るとして、先の【親思う…】に続く下の句は、「自分の死を知らせる【けふのおとづれ】(今日の手紙)を手にした両親は【なにときくらむ】(どんな気持ちでいるだろうか)」といった意味になるでしょう。上の句【親思う…】と続けて読み解くと、心配し続けていた我が子に先立たれた親の深い悲しみが想像できます。
その広辞苑を書架に返却しながら、近くに新字源という辞書を見つけました。字源という言葉からもわかるように、文字の起源を載せた辞書です。ふと思い立って、今度はそちらの辞書で【親】という字の起源を調べてみました。
それによると、まず字の左側「立」の下に「木」のついた「しん」という字には「ひっつく」という意味があるそうです。それと右側の【見】が合体して「目をひっつけて見る」のが【親】の成り立ちだと説明していました。
一方、辞書には載っていませんが、「『木の上に立って見る』と書くことから、我が子を木の上に立って見守るのが【親】である」という俗説もあります。
辞書に載っていた【親思う心にまさる親心】の意味や【親】の字源、さらに俗説を統合すると、【親】とは「子どもを心配し、子どもの安全を願い、時に近くから、時に離れた場所から見守り続ける存在」と言えるかもしれません。
そう考えると「母の日」「父の日」に限らず、子どもである皆さんが【親】に贈れる最良のプレゼントは「余計な心配をかけない」ということに行き着くと思います。全く心配をかけるなとは言いません。逆に、【親】に心配をかけない子どもなど、いないはずですから。私は「少なくとも余計な心配をかけるな」と言いたいのです。
我が子が、ゲームに没頭して生活習慣を乱す心配、無断で夜間外出や外泊をする心配、SNSで素性のわからない人と繋がったり、人を傷つけたりする心配…。それらは全て、子ども側に最低限の一般常識や良心、適正な判断力さえあれば、かけなくて済む心配、つまり「余計な心配」です。
上記の例も含め【親】にそんな心配をかけていないかどうか、改めて今の時期を「親の日」月間ととらえ、自分を振り返ってみてください。