鍵を家に忘れて学校に行ってしまったときのことです。帰宅した私は、玄関先で鍵を持っていないことに気づきました。「あっ、鍵がない」 そう思った直後、私は瞬時にある行動に移っていました。それは、雨どいや庇をつたって2階によじ登り、鍵のかかっていない小さな灯り取りの窓から家に入るというスパイダーマンのような行動です。無事に成功して中に入れた私は、帰宅した親にそのことを自慢げに話しました。
しかし、当然親からは即座に「お前は、馬鹿か!」と怒鳴られました。ただ、「もし怪我でもしたら、どうするのだ!」と叱られると思った私の予想は外れ「もし泥棒がお前を見ていたら、真似されるだろう!」と叱られたのでした。
そんな私は、よく親や先生から「お前は、石橋を叩いて渡れ」といったお説教をされました。
【石橋を叩いて渡る】
念には念を入れて用心深く物事を行うことをたとえた諺です。再三聞かされたこの諺は、以来私にとって自戒の言葉となり、大人になってからは少し慎重に橋を渡るようになりました。
ところで、この「橋を渡る」という表現は、多少のリスクを負っても、人生や仕事などで新たな段階に進んだり、大きな転換を図ったりする際の比喩(たとえ)としても用いられます。
私は、間もなく板三中での校長歴が9年になろうとしています。先の比喩で言うならば、私はその9年間でたくさんの橋を渡らせてもらいました。例えば、教育目標の改定。毎日・全授業の配信、校則の『Be Gentleman(紳士であれ)』への1本化。標準服の男女別廃止。卒業式・運動会・文化祭の形態や内容、会場の変更。第3の居場所(SBSルーム)の設置。一律の宿題廃止…等々。
それらは、板三中を含めどの学校も渡ったことがない橋ばかりでした。そんな橋を最初に渡ることができたのは、板三中の先生方や生徒、保護者の皆様が、私の背中を押してくれたからです。そのおかげで、それまでの学校では見たことのない景色を見られたことに、今心から感謝しています。
人生という名の道は、平たんでまっすぐな道とは限りません。むしろ曲り道やでこぼこ道、上り坂や下り坂の連続だと言えるでしょう。そして、そんな道中で大きな選択を迫られるのが、目の前に現れた橋を渡るか渡らないかです。
橋の向こうのまだ見ぬ景色を見たいと思ったら、橋を渡るしかありません。ただし、無鉄砲の意味のとおり、結果を考えずむやみに橋を渡るのは「大胆」ではなく「無謀」です。一方で、石橋を叩いても渡らないのであれば、それは「慎重」ではなく「臆病」です。
人生の行く手に架かる橋…。慎重に見通しを立てた結果、渡らないという選択をするのも大事です。ただし、もし渡ると決めたら、そのときは大胆に渡ってください。
臆病となるな、慎重であれ。 無謀となるな、大胆であれ。