その日…3月10日が間もなくやってきます。
1945(昭和20)年8月6日・広島原爆投下。同年8月9日・長崎原爆投下。たぶん多くの日本人が、その日を「忘れてはならない日」として記憶に刻んでいるでしょう。
では、皆さんの中に、同じ年の3月10日に何が起きたかを問われ、即答できる人はいるでしょうか。
今から81年前、広島や長崎に原爆が投下された年と同じ1945年の3月10日未明、日本の首都東京は、城東地区を中心に炎に包まれました。終戦の約5か月前、日本の敗戦もいよいよ決定的になりつつあったこの日、東京の下町一帯はアメリカ空軍の無差別攻撃(約300機のB29型爆撃機による、夜間低空焼夷弾攻撃)にさらされたのです。
空襲時間約2時間30分、投下された焼夷弾(対象物を焼き払うため油脂を充填した爆弾)約33万発、死者約10万人、焼失家屋約27万戸(区部の約3分の1が焼失)。これが世にいう『東京大空襲』です(被害状況には諸説あります)。ちなみに10万人という死者の数は、短時間の惨禍としては約14万人と推定される広島原爆による死者に次ぐ多さです。
平成2年、東京都はこの東京大空襲が行われた3月10日を『東京都平和の日』と定めました。
東京に暮らしていながら、広島や長崎に原爆が投下された日は覚えていても、同じくらい多くの犠牲者を出した東京大空襲の日を知らない…。そういう都民は、中学生に限らず大人にもたくさんいます。以前から私は、そのことが不思議でなりませんでした。いえ、不思議というより「残念」と表現したほうが適切かもしれません。
私は、当時皆さんと同い年くらいだった自分の父から、東京大空襲の約1か月後に被災した『城北大空襲』の様子を聞かされたことがあります。父は、母親(私にとっての祖母)と弟たち(私にとっての叔父)が田舎に疎開していたため、父親(私にとっての祖父)と2人で豊島区に住んでいました。
その日、まだ夜中だというのに、辺りは全ての家屋を燃やしつくす炎で昼間のように明るくなったと言っていました。そして、祖父と2人、近所で唯一燃える建造物のない場所、現在のJR埼京線・池袋駅~板橋駅間の鉄道敷地内を目指して逃げたのだそうです。そこにたどり着くまでの間、道路両脇の家屋が全て火事で燃えていたので、まるで炎のトンネルのようになった路地を走り抜け、一命をとりとめたと聞かされました。
私の手元に、『東京が燃えた日』(岩波ジュニア新書)という本があります。著者の早乙女勝元氏が、自身の体験やさまざまな資料、罹災者の証言、記録等をまとめた書物です。中学生の皆さんにもぜひ読んでもらいたい1冊ですが、本日はその中に収録されている森川寿美子さんという方の手記を引用させてもらいます。
森川さんは当時24歳になる主婦で、輝一くん(4歳)と敦子ちゃん・涼子ちゃん(双子8か月)の3人のお子さんがいました。夫は出征(兵隊として戦地に行くこと)していて不在だったため、寿美子さんは荒れ狂う戦火から幼子3人の命を、女手ひとつで守らなければならなかったのです。
紙面の都合上全文を引用することはできませんが、体験者にしか綴れない生々しい手記の一部を読んでみましょう。
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《 前 略 》
外の風はもう言葉にならない強さで吹きまくっている。人びとの持ち出したふとんは、木の葉のように飛んでゆく。まりのように転がったまま起き上がれない子どももいる。私はどうしたらいいのだろう。近所の人たちはもうだれもいない。私が子どもの用意をしている間にみんな逃げてしまったらしい。いつも森川さんをおいて逃げるようなことはしないわよ、といってくれていた近所の人たちも、この夜ばかりは、自分のこと以外考えられなかったのでしょう。
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森川さんは輝一くんの手をつかみ、双子の赤ちゃんを2人とも背負って、火の粉まじりの烈風の中を避難所の公園まで逃げてきました。しかし、間もなくその公園も炎に包まれてしまい、とうとう公園の隅にあるプールにまで追いつめられてしまいます。
もはや一刻の猶予もありませんでした。森川さんは氷点に近い冷たさの中、意を決して3人の子どもとともに水中に身を投じます。火は、すでに近隣の小学校にまで燃え移っていました。
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ああ、火の粉は、私たちの頭の上から落ちてくる。学校に燃えうつった火は、まるでプールの中の私たちのさけびをあざ笑うように、容赦なくふりかかってくる。「おかあちゃん、熱いよ、おじいちゃんの所へ行こうよ」「輝一、もうどうしようもないのよ。もうすぐ燃え落ちるまでがまんしてね」「うん」 力なくうなずいて泣く輝一を抱きしめて、私もあふれる涙をぬぐうこともできないのです。
背中の子たちはこの煙と熱さに、さっきまでの力もなくなったのでしょう。ときどき小さな泣き声を出すばかりです。ああ、どうすればいいのだろう。どうしてやりようもない。私はあつい地獄の火の中で、背筋の冷たくなるのを感じました。かわいそうな子どもたち。こうして苦しみながら死んでいくのに、おろしてやることもできない。何というむごさであろう。
ああ、もうだめだ。こんな小さな身体で、最後の力で私に訴えているのであろう、小さな足が私の腰をけっている。ごめんなさい、ごめんなさい。敦子、涼子。さぞこの母がうらめしかろう。私は一瞬この火の海の中で、輝一もいっしょに親子そろって死んだほうが、どんなに楽だろうかと思った。
そのとき輝一が、「おかあちゃん、熱いよ。赤ちゃん、もっと熱いだろうね、だいじょうぶ?」と声をかけてきた。私はぎょっとした。「輝一、だいじょうぶ。赤ちゃん、おとなしくしているから。ぼくは男だもの、もうちょっとがまんしてね」「うん、赤ちゃんだいじょうぶならいいんだ。どこへもやらないでね…」 輝一は苦しげに私に訴えている。力もつき果てそうな私に、輝一の声は神の声にも聞こえたのです。私には、輝一がいる。この子を何としても助けよう。
学校にうつった火の手は、もう目もあけられぬほど、私たちの頭の上におそってくる。もしこのプールに飛び込むのがもう少しおそかったら、私と子どもはすでに焼けただれていただろう。身動きもできぬ人たちはおたがいにお父さん、お母さん、〇〇ちゃん、××子と肉親の名前を呼び合っている。私にはだれもいない。
林さんの姿も私の目に、はいらなくなってしまった。すがるべき人はだれもいないのだ。二人の子はもうすでに死んでいる。背中で重くなった敦子、涼子の小さな身体が、私の肩にくいいるように感じられる。そしてもう一人、私の手の中でだんだん弱まっていく輝一は、すでに意識もさだかでないのだろうか。
「輝一、しっかり。眠らないで。もう少しよ。輝一、輝一、お母ちゃんをおいていかないで」 私は輝一の意識を呼びもどそうと、声をかぎりによびつづける。この子を死なしてどうしよう。輝一だけは助けよう。私の姿は、さながら狂女のようであったろう。
火の手は弱まることを知らぬように、ますます大きくうなりを立てて落ちてくる。私は輝一を焼くまいと、輝一の顔へ自分の身をかぶせるようにして火を防ぐけれど、苦しく、熱く、ときに私自身ふうっと眠くなるような気持ちになってくる。今眠ったら大変だ。こんなとき眠くなるのは一番あぶないことだと、ずいぶん昔にだれかに聞いたことを思い出して、私はまたも輝一、輝一と呼びかけるのです。
ああ、もうだめだ、こんな大きな学校が焼け落ちるまで、身動きもできない苦しさの中で耐えられるかしら。もうしかたない、心の底からあきらめに似た気持ちが湧いてきたとき、また輝一が「おかあちゃん、僕おとうちゃんに会いたいよ」とつぶやくように言った。
「輝一、がんばろう、もうすぐみんなに会えるのよ。おとうちゃんにも会えるからね。がまんして、輝一、輝一」と、落ちてくる火の粉をふせぎながら、私はもう一度、輝一をはげしくゆすったのです。けれど輝一は、「赤ちゃんは大丈夫?」とつぶやいたきり眠りに落ちていきました。
ああ、この火はいつおさまるのだろう。おそろしいこの地獄の苦しみはいく時間続いたのだろう。三月はじめの夜明けといえば、六時をまわっていると思う。いつか火も弱まり明るくなってきたとき、私はぬけがらのような自分に気づきました。
そしてこの目で見た一晩の苦しみは、いく百人かの死体と、あまりにも変わり果てたあたりの様子だったのです。ぎっしりつめこまれたようにプールに入った人たちは命長らえた人も気の狂ったまま、ただぼう然と立ったままの人も大勢いました。またその人を助け上げる力も、すべての人はなくしていました。見るも無惨とはこのことをいうのでしょう。
私はなんの考えも浮かばない。でもこの手の中には輝一がいる。このおさない身体に、一夜の苦しみはあまりにも重く耐えきれなかったのでしょう。唇はもうすでに死んだように黒くなっている。
やっとプールからはい出た。ぬれた身に吹きつける北風は輝一の身体を固くしていきます。私は寸時もおくれてはならない。でも、どうしたらいいのだろう。くずれそうになる心をふり切って、背中の二人をおろしました。小さな手は母の肩につかまってなかなか離れない。家を出るとき着せた菊の模様の着物の胸に住所、姓名の名札までつけて、いつもおとなしく眠っているときのように、二人ならんで死んでいる。私は、二人の上におおいかぶさって、泣きました。ごめんなさい、ごめんなさい。私は、ただこれしか言えないのです。
輝一はますます唇を固くかみしめていく。小さな二人はもうすでに手のつけようがないのだ。今は、なんとしても輝一を助けなければ…。
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残されたたった一人の子、輝一くんを抱きしめ、あらん限りの声でその名を呼び続ける森川さんは、通りかかった警察官から、サッポロビール工場の裏にある臨時救護所に行くよう勧められます。そこで、冷たくなった二人の赤ちゃんに、焼け焦げ水につかった「ねんねこ」を掛けてやり、後ろ髪を引かれる思いで公園を出ました。
救護所に向かう路上は、まさに死体の山。男女の区別もつかないほど真っ黒になった遺体が、人形を焼き転がしたように散乱しています。
そんな街中を歩き続け、やっとの思いで救護所にたどり着きますが、そこに肝心の医者はいませんでした。そのためやむを得ず、焼け残った知り合いの斉藤さん宅に身を寄せ、改めて医者を探すことにしたのです。
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せまい家の中には、大勢の人がぬけがらのような顔で逃げてきている。ぬれた服を脱がせ、かわいたのを一枚貸してもらいました。斉藤さんの厚意でふとんもいただき、つめたく固くなっている輝一をくるみ、私はしっかり抱きしめ、摩擦を始めました。もう疲れも何もありません。なんとかして助けよう、どうしてもと、無我夢中でした。だれか覚えていないけれど、熱いお茶を手渡してくれました。私は口うつしに、輝一の口に少し入れてやりました。初めちょっと苦しそうでした。でも、輝一は「ううっ」と飲みくだしました。
ああ、輝一はだいじょうぶ、死にはしない。輝一、がんばろう。私はうわごとのように呼びかけながら、摩擦をしたのです。せめて私の身体の温かみを少しでもあの子にうつせるものならと、私は自分の肌に直接輝一をくっつけて、手を足をこすりました。
でも、輝一は最後の力をふりしぼったのでしょう。薄く目をあけ、小さな声で「おかあちゃん」とただそれだけいって、もう息をしなくなりました。
「輝一、輝ちゃん、もう一度目をあけて、死なないで、だめよ、だめよ」 私は輝一におおいかぶさったまま、何もかも終わってしまった、もうなにもないと思ったまま、何かに引きずり込まれるようにわからなくなりました。
《 後 略 》
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『東京が燃えた日』の著者である早乙女勝元氏によると、森川寿美子さんは以上の手記のもとになるメモを、東京大空襲翌年の同じ3月10日、子どもたちの一周忌に墓参りから帰宅して書いたのだそうです。どうしても「あの夜のこと」を書き残しておきたくて、亡き子らに話しかけるような気持ちで書いたのだといいます。
そして、手記の原稿には、次のような手紙が添えられていたそうです。
【あと何年かたって、日本中が戦争を知らない世代ばかりになったとき、あの子たちが死んだことが、だれの心にも残らなかったとしたら、母として子どもにすまない気がして書きました】
最初に『東京が燃えた日』を読んだとき、私は「取り返しのつかない過去」に対する悲しみと怒りを覚えました。しかし、森川さんの原稿に添えられていたという手紙を読み、森川さんの執筆動機、つまり、なぜ森川さんが「あの夜のこと」を書き残しておこうと思ったのかを知ったうえで読み返すと、悲しみや怒りだけではない、また別の思いが湧き上がってきます。
それは、「取り返しのつかない過去」を、「あらゆる可能性を秘めた未来」に語り継がなければならないという使命感です。
生徒の皆さん。
私と一緒に考えてください。戦争は、なぜ起きるのでしょう?
…いえ、今の問い方は、無責任だったと思います。戦争は、勝手に「起きる」ものではなく、人間が「起こす」ものなのですから。
では、主語を入れ替えたうえで、改めて問います。
人間は、なぜ戦争を起こすのでしょう?
自国の領土を拡大するため?
より多くの資源を確保するため?
自分たちと異なる主義や思想、人種、宗教が許せないから?
巨額の富をもたらす軍需産業という名のビジネスが存在しているから?
あるいはまた、人間という生き物が、もともと同種間の争いを好む性質を持っているから…?
その答えは人によって、あるいは、戦争によって異なるかと思います。ただし、誰が、どんな理由をつけようとも、これまで起こした全ての戦争に共通する紛れもない事実があります。
それは、戦争によってたくさんの血と涙が流れ、多くの命が理不尽に奪われたということです。そして、その都度、誰もが嘆き、あるいは憤り、あるいは眉をしかめ唇をかんできたということです。
それなのに、歴史という大きな時間の流れの中では、次の瞬間また同じ失敗を繰り返してしまう。しかも、科学技術の進歩を背景に戦略や兵器の近代化が進むにつれ、失敗もまた繰り返されるたびに、ますます多くの犠牲を出すようになっていきました。20世紀以降に行われた戦争が「大量殺戮の時代」と呼ばれる所以です。
もう人間は、いい加減に気づくべきではないでしょうか。どんな理由をつけても、戦争は戦争なのです。そして、戦争とは、多くの命を奪い、多くの傷を人々の心と体に残すものなのです。そんな当たり前で簡単なことを後世に語り継ごうとしないから、人間は同じ失敗を繰り返してしまうのです。
私も皆さんも、実体験としての戦争を知りません。しかし、歴史を学び、後世に語り継ぎ、先人の払った莫大な犠牲を無駄にしない覚悟を持つのは、あとに残った者の使命だと思います。
その使命を私たちが果たさなかったために、いつか私たちの子孫が同じ失敗を繰り返したとしたら、それはもはや彼らの失敗ではありません。
「私たちの失敗」なのです。
死んだ彼らが残したものは
生きてるわたし
生きてるあなた
ほかには誰も残っていない
ほかには誰も残っていない
谷川俊太郎 「死んだ男の残したものは」より
今回の講話を聞いた(校長通信を読んだ)感想、友達やおうちの方と話し合ったこと、考えたことなどがあれば、教えてください。私も、また一緒に考え続けていきたいと思っています。