先日、7年生が国語学習の一環として、映画『舟を編む』を鑑賞していました。原作は、国語辞典を編纂する編集者の姿を描いた三浦しをんさんの小説です。あらゆる日本語の意味を網羅した国語辞典を作る主人公は、言葉に対する執着心の強い人物として描かれていました。
そんな主人公とはレベルが違いますが、私も幼い頃から言葉にこだわる性分だと言われてきました。
例えば、自分の記憶にはないのですが、親の話によると、幼稚園時代の私は先生に信号の色を尋ねられ、一人だけ「緑・赤・黄色」と答えたのだそうです。そして、「青・赤・黄色と覚えましょう」と教えられても頑として譲らず、他の園児にからかわれ泣いてしまったと聞きました。
また、確か小学5年生の調理実習の授業だったかと思います。先生から「お湯を沸かしてください」と指示された私は、「お湯を沸かしたら蒸発しちゃいます。水を沸かすのではないのですか?」と質問しました。それに対する先生の返答は、たった一言「屁理屈を言うな」でした。
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大人になってからも、こんなことがありました。レストランで家族と外食中、デザートにバニラアイスを注文した時のことです。店員さんが「こちら、バニラアイスになります」とテーブルに置いた注文の品を見ながら、私はこう尋ねたのです。「じゃあ、これは今何なのですか?」
…その瞬間、家族から「人の揚げ足をとらないの!」と袖を引っ張られました。
以上のようなエピソードは、確かに「屁理屈」あるいは「揚げ足とり」と言われても仕方ないでしょう。ただし、昔も今も当の私には「屁理屈を言ってやろう」「揚げ足をとってやろう」という意識はないのです。
それが信号の色であれ、【お湯を】における格助詞【を】の用法であれ、誤った接客用語であれ、通常は人がスルーする言葉に無意識の執着を抱く、まさに性分なのかもしれません。
そんな私が、あえて強烈に意識しているこだわりもあります。ただでさえ無意識の執着心をもつ私が強烈に意識しているのですから、これはもう相当なこだわりだと思ってください。
それは、「死ね」「消えろ」「うざい」「きもい」という言葉を、絶対に人に使ってはいけないというこだわりです。
その「死ね」という言葉を、先日ある生徒が笑いながら友達に言っている光景を目にしました。その光景を見た瞬間、私が着任した4年前、当時の板三中生に出した次の『校長宣言』を、再発出しなければならないと思いました。
「死ね」「消えろ」「うざい」「きもい」 以上の4つの言葉を、板三中から永久追放します。少なくとも、人に対して絶対に使ってはいけません。
それらの言葉は、TVのバラエティー番組で頻繁に耳にします。若い人が軽い気持ちで使っていることも認めます。しかし、それを人に向かって発した時、相手を傷つける危険性の高いことは、紛れもない事実です。
ましてその傷は、相手の心に一生残るかもしれないし、最悪の場合相手の命を奪う致命傷にもなりかねないのです。私は校長として、そのように危険で下品な言葉を、SNS上も含め人に対して使うことを禁じます。
…と、そう言うと「それは『Be Gentleman(紳士であれ)』とは別の、新しい校則ですか?」と問う人がいるかもしれませんが、全く違います。校則やきまりは、合理性があるか・ないか(正当且つ明確な根拠があるか・ないか)で、現状や実態に照らして常に見直すべきものです。
それに対して先の『校長宣言』に、合理・非合理は関係ありません。それは、戦争や暴力・いじめを禁じるのに、合理性の有無は無関係なのと同じです。合理・非合理を超越した、いわば「無合理の宣言」、さらに分かりやすく言うと「ダメなものは、ダメ」という校長の断固たる意思表明なのです。
では、改めて宣言します。「死ね」「消えろ」「うざい」「きもい」の4つの言葉を、板三中から永久追放します!